西安新出土・「祢氏墓誌」でシンポ

掲載日: 12年03月01日 | カテゴリ: トップ記事

拓影など“初公開”
明治大古代研
初唐書蹟、一気に4展出現

 「新発見百済人『祢氏(でいし)墓誌』と七世紀東アジアと日本」と題する国際シンポジウムが2月25日、東京・千代田区の明治大学駿河台キャンパスで開催された。
 
 同シンポは同大学の古代学研究所などの主催によるもので、主題となった「祢氏墓誌」は昨年10月23日付の朝日新聞が「『日本』の名称、最古の例か」として同じ墓群からの出土と見られる「祢軍墓誌」の内容を紹介し、書道界でも急速に関心が高まっている新出土資料。
 
 シンポでは、同大の気賀沢保規教授による報告と、同墓群の発掘に携わった西安市の張全民研究館員による報告が特に注目された。(3面に関連グラフ)
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 各報告者の報告内容を総合すると、問題の墓誌の一部(祢素士、祢仁秀の両墓誌)は一昨年5月に中国・西安市で同市文物保護考古研究院による、西安南西郊外の長安区郭杜街道に所在する百済人祢氏一族の墓群(三座)の発掘調査によって発見された。
 
 墓はいずれも盗掘に遭っていたが、このうちM13の祢素士墓と、M23の祢仁秀墓から墓誌が出土した。
 
 M15は、素士の父で、仁秀の祖父に当たる祢寔進の墓と見られており、墓誌は出なかったが、現在洛陽理工学院(旧洛陽大学)に収蔵されている「祢寔進墓誌」がこの墓から流出したものと推定されている。
 
 
 そしてこの墓群の北方約100辰僚蠅砲△詈茲、祢寔進の兄、祢軍のものと考えられており、盗掘に遭っていて墓誌も見つかっていないが、やはり洛陽方面に流出したものと思われるという。
 
 そして、この「祢軍墓誌」の拓本を洛陽で入手したという吉林大学の王連龍氏が昨年7月、「百済人<祢軍墓誌>考論」と題する論文を『社会科学戦線』2011年第3期に発表。
 
 これに同墓誌の拓影が載ったことから朝日新聞が取り上げるところとなり、「祢氏墓誌」の存在が一気にクローズアップしたというのが、これまでの経緯のようだ。
 
 
 しかし近年の中国の学界では、「新発見」「新出土」の原資料がその後「行方不明」となり、そのコピーや複製が捏造されて出回るケースも間々あることから、日中の研究者は目下、血まなこになって「祢軍墓誌」の原石の所在確認を続けているが、現在までのところ王氏が入手した拓本以外には、全く手掛かりがない状態。
 
 とはいえ、今回の場合は他の一連の墓誌が確認できていることと、「800字を超す文字数と字体、文章の確かさから、偽物ではないと概ね一致した学界の認識」(気賀沢教授)に基づいて、今回のシンポが開催の運びとなったということのようだ。
 
 
 従って、「祢軍墓誌」については若干不安は残るものの今回の一連の発見で、1)祢氏の出自は中国・山東(異説あり)で200年ほど前に百済に移住、2)祢軍は武王の14年(613)に百済で出生、3)660年(祢軍48歳)の唐・新羅連合軍による百済滅亡に際し義慈王を奉じて唐に降った百済の高官または将軍が、祢軍と祢寔進の兄弟、4)その後の唐では弟の寔進の方が格段に出世しており、義慈王の投降に関与したのは弟の可能性、5)その後、祢軍は唐の使者として日本に派遣された、6)その使者としての任務は、百済を支援して663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫し、撤退した日本に対する戦争責任追及のためだった、などのことが分かり、7世紀の東アジア情勢を知る上でも一級史料であることは間違いないところだ。
 
 
 また書蹟としても、どれにも書者名の記載のないのは残念だが、いずれも端正な初唐期の特長を帯びた楷書で書丹されており、寔進が672年、軍が678年、素士が708年、仁秀が727年にそれぞれ没していて墓誌の年代が正確に分かることで、その資料性はすこぶる高いといっていい。
 
 ちなみに、この前後の都西安の書壇事情をみると、虞世南が638年、欧陽詢が641年、 遂良が658年、欧陽通が691年にそれぞれ没しており、孫過庭が「書譜」を書いたのが687年、顔真卿が生まれたのは709年である。



(書道美術新聞 第979号1面 2012年3月1日付)



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