「百済武王」展ひらく

掲載日: 12年01月01日 | カテゴリ: トップ記事

“白眉”の書蹟等、公開
韓国・扶余
弥勒寺新出土資料など一堂


 ちょうど3年前の2009年1月、韓国全羅北道益山市の弥勒寺址に残る石塔の解体修理作業の過程で、7世紀百済の武王時代の貴重な遺物が大量に出土した。
 
 このニュースは当時、日本でも関係学会等に大きな関心をもって迎えられたが、昨2011年5月から7月まで2カ月にわたり同忠清南道扶余郡にある国立扶余博物館で開かれた「百済武王」展は石塔からの出土品を中心に近年の百済をめぐる韓国斯学の成果を一堂にしたもので、韓国内はもとより海外にも多大な反響を呼んだ。
 
 同展で公開された遺物資料から、特に朝鮮書芸史上、見逃せない書蹟の一部をご紹介する。(本紙4面に関連画像)
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 韓国南西部に位置する益山の地は、近年の研究で百済王朝第三十代武王の時代に王都だった可能性も指摘され始めている土地柄で、今回石塔の下から新たな遺物(19件683点という)が出土した武王の創建に係る弥勒寺も当時の敷地面積は約13万平方辰箸いΦ模(法隆寺は18万平方叩砲世辰燭海箸知られている。
 
 しかし古代朝鮮三国時代の百済については、その滅亡後文化の継承者が途絶えたことなどもあって伝存する歴史資料が極めて乏しく、とりわけ書蹟資料で今日知られる主なものとしては、僅かに「砂宅智積堂塔碑」と、武寧王陵出土の「買地券」等数えるほどしかなく、百済の「書芸史研究」など夢のまた夢といっても過言ではないほどの状況であった。
 
 
 そうした面からも今回、年代的にも西暦639年と特定できる新資料が出土した意義は大きく、またこれによって、1965年に同じ益山市の王宮里に残る5層石塔から発見され、これまで9〜10世紀の統一新羅末〜高麗初期と目されて来た舎利瓶・舎利函や「金剛経板」なども、同じく武王時代のものとする見方が強まっているということである。
 
 
 百済の関係ではこのほかにも、2007年には奈良・飛鳥寺の原形といわれる王興寺址(扶余)から百済第27代昌王時代の西暦577年に作られたことが特定できる銘文をもつ舎利器なども出土している。
 
 また、近年は扶余や益山等の遺址から数量的にはまだ多くはないものの、木簡や石簡、印章瓦、墨書土器等の出土も相次いで百済の文字資料は着実に増えつつあり、こうした状況を受けて2003三年には国立扶余博物館で「百済の文字」展が開かれ、「百済木簡」をはじめとする文字資料がまとめて公開されたことも記憶に新しい。
 
 
 弥勒寺址の石塔は創建当時は九層だったと考えられているが、つとに頂部を失って今日では6層が簡易補修された形で残っており、2001年から始まった解体修理では上層部から順次解体が行われてきた。
 
 この間、各層からも少なからぬ遺品が発見されているとされるが、今回(2009年)の新発見はその最下層部分の心柱石の下からもたらされた。
 
 出土した遺品中の白眉は何といっても、当時の金属工芸の水準の高さを示す壷型の金製舎利器(大小二器が2重になっている)と、百済の文字文化の粋を示すものといっていい「舎利奉迎記」。
 
 このうち「舎利奉迎記」はタテ10・3×ヨコ15・3僂僚禧眄修糧弔良塾△法∪練された六朝風の楷書で「竊以法王出世随機赴」で始まる計192字(1行9字、表裏合わせて22行)が陰刻され、文字には赤漆が埋め込まれている。
 
 内容は、弥勒寺創建の経緯と布施者が百済王妃である佐平沙■積徳の女(むすめ)であること、舎利を奉迎した年月日、大王陛下の長寿と治世の末長きことを願う記述などが綿々と綴られている。
 
 興味深いのは、裏面の3行目に「此」の脱字を後補していることで、どのような経緯で加えられたものかは不明だが、文意の上からは不可欠な1字とされている。
 
 
 これと類似の、木塔建立の経緯やその修築の記録などを留めた銘板が慶州の皇龍寺址出土の「刹柱本記」として知られるが、こちらは塔自体の建立は西暦646年で弥勒寺石塔とほとんど同時期ながら、この金銅製の「刹柱本記」銘板は塔の修築が行われた統一新羅時代の西暦872年のものであり、今回新出土の弥勒寺の「舎利奉迎記」銘板の方が値打ちは数等高いといえよう。
 
 なお、「刹柱本記」銘板はかつて盗掘の憂き目を見、1966年に回収されたものという。
 
 
 また、今回の「舎利奉迎記」の出土で改めて脚光を浴びている益山・王宮里の五層石塔出土の一連の舎利荘厳具の一つ、「金剛経板」はタテ14・8×ヨコ17・8僂裡隠綱腓らなる金板(純金または銀板に金メッキ)に「金剛般若波羅蜜経」が細楷で1行17字、1枚17行でびっしり刻されており、これも17世紀百済のものであることが確認されれば、書蹟資料として再認識されるのは間違いないところだろう。
 
 
 このほか、弥勒寺の石塔下から舎利器や「舎利奉迎記」と同時に出土した「円形青銅盒」の蓋表面にも、その後の調査で「上部達率目近」の6字が判読されており、名高い「砂宅智積堂塔碑」の砂宅智積という高官の名も歴史的には『日本書紀』の記事でのみ確認されるほど大和朝廷と関わりの深かった百済だけに、今後の百済研究の進展は、われわれ日本側にとっても目が離せないものとなりそうだ。



(書道美術新聞 第975号1面 2012年1月1日付)



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