道教と書法<漢−唐>(抄)

掲載日: 09年08月01日 | カテゴリ: 書道美術新聞【1面】


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玄宗皇帝と道教
 歴代皇帝の中でも、とりわけ道教を崇信したのが玄宗である。
 
 玄宗は承禎から法籙(ほうろく)を受け、王屋山に陽台観を造営してこれに居住せしめた。
 
 書をよくした承禎に、篆書・隷書および彼が創作した金剪刀書という3種の字体で「老子道徳経」を書写させて石経を刻せしめたと伝え、さらに帝自ら「御注道徳経」(738年立碑)を撰した。
 
 承禎は李白・王維・賀知章など詩文や書画に優れた人物とも親交があり、時人は「仙宗十友」と称した。
 
 
 ところで、玄宗には金仙公主・玉真公主という同母の妹がいたが、この2人は玄宗の即位とともに道士となり、それぞれのために道観が建設された。
 
 金仙公主が亡くなると、その神道碑を玄宗が、墓誌(736)を玉真公主が書しているのは興味深い。
 
 
 玄宗期前後の遺作としては、以下のようなものがある。
 
 睿宗「景竜観鐘銘」(711)、李★「葉有道碑」(717)、呂向「述聖頌」(725)、蘇霊芝「夢真容碑」(741)、韓択木「告華岳文」(742)、戴★「玄元霊応頌」(742)、徐浩「崇陽観聖徳感応頌」(七四四)、李陽冰「城隍廟碑」(七五八)。
 
 
 司馬承禎の後を継いだのが13代李含光(りがんこう)で、玄宗に「上清経★」を授け、「玄静先生」という号を賜った。
 
 そして含光の墓碑が、張従申「李玄静碑」(772)と顔真卿「李玄靖碑」(777)である。
 
 

道教関係の顔書
 顔真卿もまた、道教を尊崇した書人であった。
 
 顔真卿は759年、昇州刺史・浙西節度として南京に赴任した。
 
 南京近郊の茅山の宗師であった李含光の至徳を知り、道教の深い教えを慕った真卿は書簡を託して誠意を述べると、弟子を通じて返書があった。
 
 面会は結局かなわず、思いは募るばかりだったものの、宗師遷化(せんげ)後、宗師の弟子たちからの依頼で碑文を撰書したのだった。
 
 
 また768年、顔真卿は撫州刺史として臨川(江西省撫州)に赴任した。
 
 その南東の南城県には仙女麻姑(まこ)が昇仙したという伝説がある麻姑山があり、開元中、玄宗の命で仙壇観が造られていた。
 
 ここを謁した顔真卿は、有名な「麻姑仙壇記」(771)を書いたのである。
 
 さらに撫州時代には、「魏夫人仙壇碑」「華姑仙壇碑」も撰しているが、残念ながら碑は現存しない。
 
 このほか道教関連の顔書としては、「華嶽廟碑」の右側に追刻された「謁金天王神祠題記」(758)がある。
 
 
 安史の乱以後、晩唐にかけても、帝室の道教尊重は基本的には変わらなかったようである。
 
 茅山には竇臮「景昭法師碑」(787)、柳公綽「東漢紫陽先生碑」(826佚)など能書が揮毫した碑があり、柳公権書という幾種かの写経も伝わっている。
 
 しかし惜しいことに王朝の衰微とともに、道教関連の書法の遺品も、質の高いものが少なくなっていくのである。


 
(ゆみの・たかゆき=大阪市立美術館主任学芸員)



(書道美術新聞 第920号1面 2009年8月1日付)



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