(1)      (昭和51年6月7日第三種郵便物認可)美術新聞社報 平成29年(2017) 11月20日(月曜日)
書道美術新聞【1面】
梧竹の書簡、21通新発見
掲載日: 10年06月01日
書道美術新聞【1面】

“くっきり”80代の「日常の書」

 明治時代に「銀座の書聖」と仰がれて幅広いファンを持った書人、中林梧竹(なかばやし・ごちく、1827-1913)の自筆書簡21通が出身地の佐賀県で見つかり、このほど専門家による文献学的な調査報告書も発表されて話題になっている。
 
 書簡は、数年前に佐賀県立図書館が受け入れた、明治期に長年佐賀市長を務め、佐賀新聞の創始者の一人でもあった石丸勝一(1851-1922)収集の膨大な資料の中から今年1月に発見されたもので、梧竹80代の境遇や動静を伝える生の資料としてはもとより、梧竹最晩年の日常的な書のありようを伝える書蹟としても画期的な新資料で、今後のさらなる研究が期待される。(◆今回発見された書簡全編と各釈文は本紙8、9面に掲載)

 ◇ ◇ ◇中林梧竹


 発見された書簡のうち20通は封書で、1通はハガキ。

 3通以外は書かれた時期が特定でき、梧竹81歳から没年の87歳までの6年間にわたっており、虫損もほとんどなく墨の香りも残っているといわれる。

 宛先は1通を除いてすべて当時の佐賀の有力者で、揮毫会の開催や三日月堂の建設などにも親身の労を取っていた支援者石丸勝一。


 それだけに、書簡の内容も単なる儀礼や連絡といったものばかりでなく、借金の依頼や腰痛の悩み、さらには孫娘の養子縁組の相談などまでと、多種多様。

 没年の大正2年まで30年近くも東京・銀座の洋服店伊勢幸に寄寓しながら、一方で郷里ともこれほど密な関係を保っていたことをうかがわせる点でも、興味深い資料といえよう。


 上掲の書簡は、他の20通とは別の箱から発見されたもので、宛名の徳広源吉は藩政時代から梧竹に仕え、梧竹の晩年は三日月堂の堂守として佐賀・小城で過ごし、梧竹の最期を看取った人物。

 この書簡に年号はないが、内容から明治43年と考えられ、梧竹は東京の伊勢幸にいて、「石丸君にご苦労ながらおいでご相談お願い云々」と、源吉に使いに行くよう指示している。

 梧竹と石丸勝一の関係の一端をうかがわせる書簡でもある。


 なお、これらの書簡21通は現在、佐賀県立図書館(佐賀市城内)でレプリカが展示公開されている。

 問い合わせ等は、筍娃坑毅押檻横粥檻横坑娃阿瞭運渊餞曚悄



【田宮文平氏の話】
 今回発見された手紙は、日常の書とはどういうものかを考える上で大変示唆に富む好資料といえる。しかも、その筆跡が書的に見ても非常に素晴らしい。

 手紙の内容は、帰郷の知らせから自身の体調、金銭面や相続に関することなどと様々だが、特に梧竹にとってのごく親しい人物、とりわけ石丸勝一のような犹抉膽圻瓩暴个靴深蟷罎これほど大量に発見されたことは、特筆すべきだろう。

 これによって梧竹晩年における活動や交遊関係だけでなく、その生活状況までも一層明らかになるだろうから、梧竹研究をさらに進展させる一助となるに違いない。


 3年後の2013年には、梧竹没後100年の節目を迎える。
 そうした時期でもあるだけに今回の発見の意義は大きく、梧竹再評価の上でも非常に大きな手掛かりを与えるものとなろう。



(書道美術新聞 第939号1面 2010年6月1日付)


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