風信帖(989)

 12年08月01日 | カテゴリ: ≪風信帖≫

 書において「臨書」がとりわけ重要視されるのは、まさにそこにこそ「書」を自己表現、自己実現の領域とする人々に、いつでも内省的、求道的な深い精神世界に容易に立ち戻れる場が用意されているからであろう

▼謙虚にひたむきに先人の「書」に向き合い、こうべを垂れ、教えを乞おうとする「臨書」の営為を忘れた瞬間に、「書」はもはや本来的な「書」ではなくなる、似て非なるものに堕すのだとさえ、いえるかもしれない。そして東洋の「書」が、西洋ではつとに精神性を見失い専らデザイン化した「カリグラフィー」とは一線を画されるべき最大の要点もまた、ここにあるといっていい

▼それにしても、日頃どれほど奔放に独善的に自己表現を追求していようと、ひとたび「臨書」のため古典を紐解くや、そこに宿る古人の人間性や精神性に触れていわば“浄化”にも似た平安を得ることができるのは、やはりそこに書かれている文字が表意文字であることと、無縁ではないと思われる

▼であれば、「書」がこれから本気で“世界芸術”をめざす上でまず手始めに取り組まねばならない喫緊の課題は、「書」を「カリグラフィー」と訳して憚らない西洋の“常識”に対して、異を唱え続けることでなければならないだろう。

(書道美術新聞 第989号1面 2012年8月1日付)




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