道教と書法<漢−唐>(抄)

掲載日: 09年08月01日 | カテゴリ: 書道美術新聞【1面】


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王羲之と道教

 東晋の書人で、「天師道」の熱心な信者として有名なのは、ほかならぬ王羲之である。
 「写経換鵞」の故事は人口に膾炙(かいしゃ)している。

 
 「山陰(浙江省紹興市)の道士が良い鵞鳥を飼っていることを聞いた羲之は、急いでそれを見に行った。
 白い鵞鳥の素晴らしさを見てたいそう気に入り、すぐに何羽か譲ってくれるよう道士に頼んだ。
 道士は、『道徳経』を書いて頂ければ、鵞鳥を全て差し上げましょう、と答えた。
 羲之はすぐに快諾し、写経を終えると、鵞鳥を籠に入れて大喜びで帰った…」
 道教においても、経典の書写には能書が求められた。
 現在羲之の書として伝世しているのは、老子が撰したとされている「黄庭経」(356)である。
 こうした写経はたびたび行われたようで、羲之の義弟で章草は羲之に次ぐといわれ、やはり熱心な道教信者であった★★(ちいん)は、大量の写経を残したという。
 
 
 羲之の遺作の大部分を占めるのが尺牘(せきとく)であり、その内容は道教に関連したものが少なくない。
 なかでも「官奴帖」(一名「玉潤帖」)は、王獻之の娘の病が重篤になった折に、道士あるいは道家の医師に宛てたものである。
 また羲之の尺牘には、しばしば仙薬に関わる記述が見える。
 羲之は道教の服食養生の方法に従って、植物性のものから鉱物性の五石散のようなものまで、各種各様の仙薬を服用した。
 
 
 その他にも、道士許邁(きょまい)と深い交友関係にあり、許邁の没後には「許先生伝」を書いたこと、次男の王凝之に至っては、孫恩の軍が迫っているにもかかわらず、祭壇に祈祷を繰り返すのみで殺害されたことなど、王羲之の周辺には道教信仰を示す史料に事欠かない。
 
 
 南北朝時代になると、道教は大きく発展する。
 北魏では寇謙之(こうけんし)が道教の戒律を整理し、組織を再編するなど改革を進めて「新天師道」を興した。
 さらに崔浩(さいこう)を通じて太武帝の信任を得ることに成功し、「天師道」は国教化されるに至る。
 寇謙之の功業を称えた碑に、「大代華嶽廟碑」(439)、「中嶽崇高霊廟碑」(456)がある。
 
 

鄭道昭と陶弘景

 書人で特筆すべきは、鄭道昭(ていどうしょう)である。
 榮陽(えいよう)の鄭氏は北朝の名家で、国子祭酒(国の最高学府の長)の任にも就いた儒学者ではあるが、510年から513年にかけて光州刺史として神仙思想の色濃い山東半島に赴くと、神仙に関する雄大な摩崖刻石を数多く刻した。
 雲峰山の「論経書詩」「観海堂詩」「詠飛仙室詩」「仙人題字」、太基山の「仙壇銘告」「登太基山詩」、天柱山の「東堪石室銘」「天柱山題字」などである。
 北斉に仕えた子の鄭述祖(ていじゅつそ)にも、「重登雲峰山記」(564)、「天柱山銘」(565)などがある。
 
 
 南朝では、陶弘景(とうこうけい)が現れ、上清派の経典を継承整理して『真誥』を著し、茅山に入って華陽館を建て、「華陽隠居」と号して茅山派を開創した。
 医薬・金丹はもとより詩文書画などにも通じた博学で、梁の武帝を政治的に後押しして「山中の宰相」と呼ばれたばかりでなく、書論をも語り合っていた。
 彼の書との説もある「瘞鶴(えいかく)銘」(514)は、北朝の鄭道昭に対して南朝を代表する摩崖石刻である。
 このほか、茅山上清派は詩文や書にすぐれた道士も多かったとみえ、元・劉大彬(りゅうだいひん)『茅山志』は茅山にあった多数の刻石を載せている。
 
 

隋唐時代の道教

 隋唐時代は、道教が非常に栄えた。
 とりわけ唐王朝は同じ李姓の老子を祖先と奉じていたので、各地に道観(道教寺院)が建設され、それに伴って碑刻をはじめとする書法の遺例も急激に数を増す。
 長安(現西安)のそばの終南山は、楼観派の拠点である。
 楼観は初唐に宗聖観と改名されたが、ここには欧陽詢撰書の「宗聖観記碑」(626)が建てられた。
 
 
 褚遂良は長安の至徳観の女性道士孟静素のために「孟法師碑」(626)を揮毫しており、やはり褚書とされる「霊宝度人経」や「陰符経序」なども伝わる。
 他にも山西省絳県碧落観の「碧落碑」(670)、江蘇省鎮江の張徳言「潤州仁静観魏法師碑」(677)、河北省元氏県の「八都壇神君実録」(685)、河南省済源県の沮渠智「奉仙観老君像碑」(685)、山西省長子県の「白鶴観碑」(686)、などが存する。
 
 
 武則天(則天武后)は「崇仏抑道」政策をとったといわれるが、泰山に自ら赴いて封禅の大典を行い、たびたび道士を泰山に派遣して斎★・投竜・写経・造像を行ったことが、一連の「岱岳観碑」に記されている。
 また、寵臣張昌宗が太子晋の後身に付会(ふかい=こじつけ)されたこともあって、嵩山への行幸の途次には緱氏山の昇仙太子廟を謁した。
 総高8メートルにも達する「昇仙太子碑」(699)を建てる時には、自ら撰書し、碑陰の揮毫には鍾紹京・薛曜・薛稷という高官で一流の書人を充てている。
 
 
 茅山派は唐朝でも強い影響力を持ち、陶弘景から2代後の十代宗師王遠知(おうえんち)が高祖の王朝交代を支持して以来、高宗は11代藩師正(はんしせい)の弟子となった。
 この間の書法で名高い茅山派の碑には、王玄宗が道士王軌のために書いた「王洪範碑」(667)があり、これに関連して弟の承宗による「王徴君臨終口授銘」(686)がある。
 続く12代司馬承禎(しばしょうてい)は、睿宗(えいそう)に招かれて国事を問われ、次いで玄宗に迎えられて入宮した。
 
 

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